マザー・テレサの「名言」はどうかと思う。

ような。って話というか記事タイトルはムリヤリというかテキトーです。

わたなべ美樹

バングラデシュ 朝、五時半に、イスラムの祈りが、響き渡っています。たくさんのご指摘に、感謝します。どこまでも、誠実に、大切な社員が亡くなった事実と向き合っていきます。バングラデシュで学校をつくります。そのことは、亡くなった彼女も期待してくれていると信じています。
http://twitter.com/watanabe_miki/status/172115048280502272

これに対するブクマに、

sajiwo マザー・テレサ曰く「日本人はインドのことよりも、日本のなかで貧しい人々への配慮を優先して考えるべきです。愛はまず手近なところから始まります」バングラディシュよりワタミ社員の処遇改善を先に考えたら。
http://b.hatena.ne.jp/entry/twitter.com/watanabe_miki/status/172115048280502272

こういうのがあったので、

id:sajiwoさん、マザーテレサを他国人支援批判に使うのはどうかと。テレサはユーゴ出身でインド出身でないし。その発言は「インド支援すばらしいしありがたいけど、ムリはしなくてもいいですよ(笑)」くらいの文脈では


と一応書きました。(わたなべ美樹さんがひどいのは書くまでもないです。)


マザーテレサの「名言」と伝言ゲーム
http://www39.atwiki.jp/eriax/pages/122.html


こういうエントリ見つけました。個人的に昔からこの「名言」について、うさんくさいなー、もしたとえ事実であってもなんだかなー、というかめちゃくちゃだろ、みたいに思っていました。

id:blackseptember このコピペ喜んで貼ってる人間は国内のホームレスとか貧困層の問題に関しては冷淡だったり、「日本のホームレスは世界一恵まれてる」みたいな放言をを平気でしそう。 いや、勝手な印象ですけどね。
http://b.hatena.ne.jp/entry/www39.atwiki.jp/eriax/pages/122.html


自分もこういう感覚を持っていたので、なんかやだなー、と。昔、軽く(=10分くらいw)検索してこの「名言」についてチェックしてみたことあるのだけど、そのときは真偽も文脈もよくわからなかった。ので、こういうエントリを書き上げる方の粘り強さにはビビります。


それで前にこういうコメントを書いたことがあります。


実はそのマザー・テレサの言葉って、イラク人質事件被害者バッシングのときバッシングしていた人たちに利用されてたんですよね。


私としては、たとえば茨城出身者がスーダンで活動するのと、新潟出身者が東京で活動することに動機の質的に大きな違いなんてなくて、スーダンで活動する人について「日本出身なんだから日本でやれば?」と非難調に言及するのは、東京で活動する新潟出身者について「新潟出身なんだから新潟でやれば?」と非難調に言及するようなものと思いますが。


それはそれとして、マザー・テレサがそういうことを言った文脈もトーン(日本での講演の際に出た質問に応えて?)も私は知りませんが、バッシングしていた人たちのこの利用の仕方はひどすぎるなと思ったんですよね。


そもそもマザー・テレサ自身が旧ユーゴ出身でインドで活動してたわけですよね。


私が想像するに、「インドの貧困をどうにかするために私に何ができますか?」的質問に、「ムリはする必要ないですよ。日本にも貧困があるでしょうから、日本の貧困のために何かしても、活動の質に違いはありませんよ」みたいなトーンだったのではと。


別に外国で活動する人たちを貶める意図なんてあったわけないはずで。そもそも、特にこの150年くらいは、外国で人道活動する人たちが無数にいたわけで、そういう活動家が成し遂げてきたことはものすごいわけで、マザー・テレサはそういうことをもちろんよく理解しているわけで。



個人的には、もしマザー・テレサが、「名言」を嬉々として流布している方々が言うような意図でこのようなことを本気で言ったとしたら、それはマザー・テレサの認識や考え方がどうよ?と思いますけど。



とりあえず2点。

1点目。「特にこの150年くらいは、外国で人道活動する人たちが無数にいたわけで、そういう活動家が成し遂げてきたことはものすごい」と書いたけど、これはマザー・テレサが何を言おうと変わらないでしょう。明治時代の日本でだって、西洋人がいろいろ人道的活動してたようですし。


マザー・テレサのように現地に骨を埋めるつもりでやれ!みたいなノリの方々というか、「骨を埋める覚悟がないような活動はダメ」がマザー・テレサの意図じゃないの?って方々もいらっしゃるようだけど、これはもう余計なお世話すぎだと思います。


他人の決断へのケチのつけ方が余計なお世話すぎかなと。「人生を捧げるくらいにやるならいいけど、「オレ様」から見て「中途半端」だったらバカにする。」みたいなケチのつけ方。外野が他人のハードルを勝手に上げすぎかと。ただでさえそういう活動は大変なのに、外野が気分とわけのわからない思い込みで勝手にハードル上げるのはどうかと思います。


たとえば、アメリカの大学院で国際関係系を学ぶ人には、外国活動経験者がけっこういたりします。というかそういう人たちが世界中から集まってくる?ボランティアとかNGOとか。


大学卒業後、ある意味「自分探し」的にそういう活動を経験する人も多い。数年とかそういう活動をして、もっとこういうことに関する専門的な勉強をしたいと大学院に入り経験を活かしながらより深く学び、また現場活動へ戻っていったり、国連や世界銀行などの国際機関で働いたり、ジャーナリストになったり、研究者になったり、または企業に入ったり。骨を埋めるような活動をしてない人たちに(「国境なき医師団」とかも有名ですけど)、マザー・テレサのの名前を出して「名言」みたいなこと言っちゃうのかと。


とにかく現実を見てくだいさいなと言いたいかんじです。今日、世界中でどんだけの人がどういうかんじで他国で活動してるか。こういう人たちに「名言」みたいなこと言っちゃいますかと。マザー・テレサの名前まで出して。



2点目。まずは身近な人を助けなさい。みたいなことについてだけど、「身近=自国」ってのは短絡的すぎではないでしょうか?


↑で「茨城出身者がスーダンで、新潟出身者が東京で」とか書いたけど、たとえ「まず身近な人を助けるべき」がまったく正しかったとしても、その「身近」は人によって様々でしょう。とある茨城出身者がスーダンのとある人々を「身近」と感じ活動しているとしたら?というか普通にそうだと思いますけど。


「日本人だから日本でやる」において、「日本人だから」というのは「日本でやる」の一つの理由の例にすぎなくて、「どこでなにをやるか」について、人にはそれぞれ様々な理由や動機があるのではないでしょうか。


「東京人が新潟でやる」ことについて、「東京人なら東京でやれば?」と聞かれたとします。「日本人だから新潟でやる」という答えもあるでしょうし、「親が新潟出身でなじみがある」という答えもあるでしょうし、「新潟のこの問題について勉強したから」という答えだってあるでしょう。


「フランス人がベトナムでやる」ことについて、「フランス人ならフランスでやれば?」と聞かれたとします。「フランス人だから歴史的にも関係の深いベトナムでやる」、「友人にベトナム人が何人かいてベトナム人の問題が他人事だと思えない」、「子供の頃に読んだベトナムについての本の影響でベトナムに思い入れがある」、いろいろ答えはあるでしょう。


「韓国人がカンボジアでやる」。「アジア人だから」、「カンボジア史を勉強したから」、「恩師の元で働こうと思った。恩師がカンボジアで仕事してた」、「知り合いに手伝っくれと頼まれた」、「昔カンボジア人に世話になったので」。いろいろあるでしょう。


「ブラジル人がルワンダでやる」。「アフリカ政治が専門だから」、「映画『ホテル・ルワンダ』を観てルワンダの人たちのためになんかしたいと思ったから」、「特にどこでというのはなかったが、たまたまルワンダでの活動があったので、じゃあルワンダでやってみようと思った」、「地球人だし」。いろいろ。


理由や動機や事情なんて人それぞれでしょう。人の「縁」なんていろいろあるでしょう。みんな、なにかの縁があって、いろいろな場所でいろいろな活動をしているのでしょう。


「日本人だから日本でやる」や「カナダ人だからカナダでやる」でもいいでしょう。だけど、それは、「東京人が新潟でやる」や「フランス人がベトナムでやる」や「韓国人がカンボジアでやる」や「ブラジル人がルワンダでやる」に比べて自明であるわけではないと思います。わかりやすいのはわかりますが、本質的な違いはないでしょう。


というか、アルゼンチン史を学んでる日本人に「日本人なら日本史学べば?」とか、イギリス文学専門の人に「日本人なら日本文学専門にすれば?」とか言ってるようなもんかもしれないのでは?


というか、ここのところの自分自身の関心が日本国内の貧困問題とか労働問題とか人権問題とかそういうことに特に向いていて、世界の問題にあまり向かなくなっているのでこういうことを書いた面もあります。